そんなに「見える」が偉いのか

自分自身がそれを克服できているわけではないので、言いたくないというか、弱みをさらしているとしか言いようが無いのだけれども、民藝、という美の概念における最大の弱点、問題点は、「それでも最終的に『見る私』の優越性が残ること」ではないかと思う時がある。

たとえば、日本の古いボロ雑巾がきれい、というのはわかる。ただ、だからといってそれを壁に貼って飾る、というのに僕は抵抗がある。もちろん、飾るのもいい。飾るという行為も暮らしなんだから。花をいけるように、雑巾も飾ればいいと思う。ただ、きれいであっても、それはあくまで雑巾なのだから、ほんとうは、その雑巾でもっと掃除をした方がいいと思う。使い終わったら洗って、その上でまた壁に貼るなりしたい。そして飾ることも出来ないくらいぼろぼろになったら、飾るよりも、燃したらいいのではないかと思ってしまう。掃除という仕事のなかで酷使された道具に偶々見いだされた美しさが、見いだされたが故に掃除から切り離されるのが、なんとなく腑に落ちない。「飾られるもの」として固着することに納得できない。

柳が見いだした民藝という概念はいわば、矛盾のただ中から生まれた美、美を捨てたところに宿る美、であるから、選ばれたものそれぞれに本来持って生まれた固有の文脈がある。つまり、雑巾であれば、掃除のため、という。それが、その文脈から「見える」人の「直観」によって、切り離される。そして、切り離されて「民藝という美」としての新しい記号をまとわされることになる。つまり、雑巾が壁に貼られた瞬間に、雑巾が掃除という場に戻れなくなってしまう。そのことに不安を抱く。そして、その記号化された「民藝という美」を、記号としてしか「見えない人」があがめてしまうことで、近代美術が陥った罠である、美の絶対優位性に「民藝という美」もまた嵌ってしまうことになる。もちろんそれを罠ということは無理なのかもしれない。「『美を発見する個人』の発見」こそが近代だったのかもしれないから。

例えば高村豊周は一九二六年に「純粋工藝、即ち工藝美術は絵や彫刻と同じ意味での鑑賞を旨とするものである」と述べた。それは「工藝美術」が「見える」人の為のものだと言っているのと同じだけれど、その結果「工藝美術」は「美術」の枠組みから離れることができなかった。これに比べると柳はむしろ、「工藝」の源泉を「用」とすることによって、制作においては「美」を捨てる事が可能になり、それが故に却って美の源泉となり得るのではないか、と仮定した。そのことで、「民藝」というものを用と美を自由に往還しうるものと捉えることができた。用によって捨てられた美の中に却って生まれた美を、もう一度用として暮らしの中に帰すことができた。まるで初期茶人、数寄者たちのように。そしてかつての数寄者たちも陥った、鑑賞と暮らしの別れを、暮らしのさなかに、美を目的としない暮らしに徹する事で美に到らしめ、統一しようとした。

だから、柳自身が普段使っているものを民藝館に展示したり、民藝館に展示しておいたものを日によって食卓で用いたことや、晩年に「民藝の茶」を模索して、自らが選んだものを総体として使う場を再構成しようとしたのも、このような美の記号化、固定化への抵抗だったのではないかと考える。それが成功したかは、わからない。それも「見える」柳あってのことだったのだから。

そんなに「見える私」は偉いのか。

ときどき、

 どんな音楽聴くの、と聞かれることがあって、返答に悩む。
 静かで、声の聞こえるものが好きです。最近はこういうのをよく聴いています。
 イベリア半島の頌歌。イスラムの匂いもしつつ、背骨になっているのは次の聖歌。

レントに入ったので、

という訳でもないのだけれど、ちかごろ、森有正を集中的に読み返している。

 知識の領域に入ってしまったものは、それを精細にきわめて、それが感覚と接しているところまで出なければならない。それ以外の道は不可能である。これが近代の悲劇であるが、それを完全に生きつくさなければならない。マラルメ、ヴァレリー、古くはレオナルド。アランもこの道に徹した。一切左顧右眄の要はない。深く深くわけ入るだけである。他の道は一つもないのだから。
 これは唯一つしか目的はない。凡ての出発点である純粋感覚に到るためである。見るに到るためである。これが学の道であり、その後に真の創造がはじまるのである。だから大変なことである。
 この「感覚の解放」ということを真剣に考えなければならぬ。プラトンも、デカルトもそれを考えた。カントもフッサールもそうである。しかし結果は自ら別である。それは分析的に進むより仕方がない。ヴァレリーの「ダ・ヴィンチ方法叙説」の本当の意味はそこにある。モンテーニュの意味もそこにある。
 感覚の解放は、千古不動の自然と直接させる、ということではない。感覚の解放そのものの中に自然が含まれていて、同時に解放されるのである。だから全くアフェクティフなものである。芸術の変化はこのことを実証している。だから模倣とか、模型とかいうことは全く意味をなさない。
 言葉で自分の崩壊を補おうとする悲惨と愚鈍の極致。これにおち入らないようにするのは修養などで出来ることではない。自分のなかの分析を一歩一歩すすめて、僅かでも感覚の純粋状態に近づくようにすることである。これは一つの「規律」を必然的に生み出す。1

この一説を読んだときに、よい民藝の解説があるな、と思った。以前も書いたことですが、近代という時代が「新しいもの」を志向する時代であったとすれば、その中において民藝運動もまた「新しいもの」「創造」をもとめた美術運動であったことは疑いない。しかし、この運動は、柳宗悦という人を得て、ほかとは少し違う道を選んだ。それはいわば「新しいものを志向するのは新しくない」という視点の導入である。近代は、近代自身を否定することすら可能にした、という意味での近代性を導入した。

つまり、民藝というのは下手を志向することではなくて、どう足掻いても下手である自分をうまくなりたいという葛藤のまま肯定することであり、美しいものに囲まれて暮らしたい、という欲望を、美しいものだけに囲まれたいという欲望は美しくない、と視点を一つ引き上げる、美を捨てた美への希求だ。つまり、矛盾を受け入れることだ。どうあがいても下手の自分を肯定しつつ、その仕事を精緻に高めていくことによって、仕事自身が達成しうる可能性の高みを目指すこと。そのために仕事に手を口を出そうとする自分を無くそうとすること。それが柳が言った民藝であっただろう。河井はその点を深く理解していた。まさに「仕事が仕事をしています」である。

そういう意味において、森有正がここで書いている「模倣・模型」と、柳がいう模倣は違う。柳がいう模倣は、この森の文においては最後に書かれている「規律」と同一である。これを柳は模倣ともいい模様ともいい仕事とも呼んだ。「反復が自由に転じ、単調が創造に移るとは、運命に秘められた備えであろう。働きこそ救いへのよき準備である。正しき工藝は労働の賜物である。」(『工藝の美・一三』)という柳と森は、このとき同じ場所に立っている。

「自分の目で見る」ということが何とむつかしいことか、いくら目をこらしてもだめである。過去の自己の解体がはじまらなければだめである。2


  1. 森有正・日記・1957年1月19日,森有正エッセー集成I(ちくま学芸文庫),524-525頁 

  2. 前掲書,1957年1月16日 

柳宗理の仕事の大切さ

昨年末に柳宗理氏が亡くなられた。ちょっと前、民藝協会の方に宗理氏の写真を見せていただいたのだけれど、だいぶ世間の様々を忘却されつつも、自分が創りだした品々に囲まれてニコニコしている姿を見て、ああ、この人は今も世界で一番幸福なデザイナーだなと思っていたので、亡くなられたこと自体には驚きはない。

亡くなられて改めて思うのは、柳宗理の仕事の大切さというのは、柳宗悦が民藝運動をはじめたときの現実と、民藝運動によって達成しようとした理想との間をつないだ、ということ。父と子を対照的なものとする感想(父は手仕事、息子はそれに対抗して工業製品、みたいな)を散見したけれど、ちょっと違う気がする。

つまり、柳宗悦の文章を丹念に読んでいけば、彼が民藝運動において単に古典回帰をしようとしたのではないことは明白であって、宗悦はラスキンやモリスらと同様に、いささか理想主義な「美」に基づく社会改良主義者として、将来的に達成しうるであろう「工藝の未来」を想定し、その実現のための実践運動として民藝運動を行なってきた。

そして民藝運動は、生産から消費に至る産業プロセスとして、下記のような手法によって成功を収めた。つまり、1.前近代的な封建主義では窯業地はもはや成り立たない状況において、近代的窯業技術をもった技術者が技術導入を行った、2.雑誌という全国流通するメディアを通じて「好み」に関するプロモーションを行うことを可能とした、3.産地へそのニーズを伝え、結果として生まれた製品を「民芸店」で売るという販売ルートを確保した、などといった「近代的」組織運営においてである。

であるがゆえに民藝運動は隆盛の時を迎え、一方では戦時中において大政翼賛的な国家社会主義において好意的に捉えられ、利用されたという面も否めない。そのような、近代化につきものの功罪は民藝運動にもまた伴う。他の近代美術運動がそうであったように。

だけれども宗悦没後、いや晩年からすでに、民藝運動が近代において様々な形態をとって行われた美術運動のひとつである、というあたりまえのことが忘れられ、近代化に抗った保守的な伝統回帰だと往々にして思われてきた。

それを柳宗理は「新幹線は民藝か」でも知られる『新しい工藝・生きている工藝』などの文章と、自らの意匠をもって、その運動の有効性と継続性を声高に主張した。その文章における論理が正しいかと言われると、新幹線は民藝ではないのは明白で、柳宗理は「機能美」と「用の美」を(いささか故意かと思われるほど)混同した上で発言している。であるがゆえに混乱の種を撒いた、ということも可能だし、「民藝」の幅を広げた、ということもできる。それを成功した、失敗した、という単純な割り切りで語ることはできない。むしろ成功しすぎた面において失敗し、失敗した面において成功の種を撒いた。

そしてその活動は実際、若い世代を今あらためて「民藝」に惹きつける重要な要因となった。その価値を忘れることはできない。そう考えたほうが、宗悦と宗理を二分してしまうような危うさから逃れることができるのではないだろうか。矛盾を矛盾のまま捉えたい。

Reblogのついでに思い出したこと。

こどもの頃、なにか欲しい物があるかと聞かれると、本買って、と常にこたえるこどもだった。風邪を引いて寝込めば本、どこかに旅行にいくときも本、しまいには親と駅前の本屋との協定により、掛け買いで本を買っていいことになった。ある年の誕生日に、福音館書店の古典童話シリーズを揃えで買ってもらったときはその装丁の立派さに、もう自分はこれくらいの本が読めるのだと親に思われている、と思い、こどもながらの自負心で誇らしく思った。特に好きではない、というものもあったけれど、なんといっても『西遊記』の瀬川康男、そして『海底二万海里』のA・ド・ヌヴィルの挿画が本文を読むことをとても楽しくしてくれて、この二冊におりおり戻りながら全部読み通し、大きくなっても相変わらず時々手にとって読む。その後、吉田健一の『思い出すままに』におさめられている「本を読むというのは…」という文章を読んだ時、こどもという時代の暗さ(それは僕自身の境涯が不遇であったという事ではなく、こども、というものの暗さそのものとして)と、だからこそ本を読むということが明るさにつながっていた、という感覚を思い起こされて、はっとした。

MISSA MEXICANA

ブリキ絵の企画展は無事終了したのだけれど、その際にいろいろと調べていて、メキシコのミサ音楽というものを見つけた。聴いてみると、マリアッチのような軽さがあるのだけれど、間違いなくスペインからきたカトリックのにおいがして、とても心地よい。この録音はプエブラで行われたらしいけれども、ブリキ絵もまた、プエブラ地方でよく描かれていたようだ。モトリニーアの『ヌエバ・エスパーニャ布教史』(岩波の『大航海時代叢書』というすごい名前のシリーズで出版されている)を読んでいると、フランシスコ会とドミニコ会の修道院もあったようで、カトリックの聖人信仰とアステカ固有の信仰が、長い時間を掛けてこのような形式をつくりあげていったと思われる。ただ、それは単に融合や折衷、といった言葉で纏めてしまう訳にはいかない。

スペイン人による征服とともにアンデスに立ち現われた植民地の美術とは、まずは支配者たちの美術であった。それは征服者の力とその支配の正当性を誇示しようとするものであり、また他方では、本国文化へのあこがれといった、植民地のスペイン人支配層の欲求をも投影したものであった。
 本国において権威をもっていた様式・図像を植民地に移植しようとする動きが、植民地美術のなかに、ひとつの大きな流れをかたちづくる。しかしこうした征服者の美術はまた、従属する側に置かれた先住民たちの視覚にも、否応なく刻みつけられていった。(中略)ここに、「もうひとつの植民地美術」とでもいうべき創造の場が立ち現れる。アンデスの先住民たちは、キリスト教美術をつくりだす側に、身を置くことを選び取っていくのである。そこでは、たとえばインカを異教徒として蹴散らした、あの聖ヤコブの像をみずから描き賛美することもあろう。それは、突如現れてみずからを征服した他者の文化に直接向き合い、その支配者の文化をわがものとしていった歴史でもあった。(中略)ひとりの先住民の手になる聖像がつくられ、それが聖堂に受け入れられるにいたるには、さまざまな曲折があった。それは、たんに先住民芸術家のパイオニアの苦難であっただけでなく、先住民社会が支配者の文化と向き合いつつ、それをみずからの文脈にとらえ直し、さらにはみずから行使しようとさえする、粘り強い交渉のプロセスでもあった。1

被支配者、布教を受けることを強いられていく側が、積極的に自らの表現、形式として、支配者、布教者の形式を先取し、そこに彼ら自身の歴史が持つ固有性を託していく。それは僕らが近代、という時代に行った様々な美術運動の中にも見出すことができる。このような視点、ブリキ絵を見、メキシコのミサ音楽を聴くのと同じ場所から、民藝運動において行われた表現を捉え直すことはできないだろうか。たとえば、スリップウェア。なぜ柳や濱田、河井たちがあれほどスリップウェアに固執し、今もなお民藝系の作り手や窯に影響を与え続けているのか。それを理解するということは、スリップウェアにおける表現や技法、美について考えることによってではなく、むしろ、僕らの暮らしにおいて、今、なぜ、スリップウェアなのか、それはどのような機能を担っているのか、を検討し続けることによってのみ可能となるだろう。


  1. 『南米キリスト教美術とコロニアリズム』,p.36-38,岡田 裕成・齋藤 晃 共著,名古屋大学出版会,2007.03 

This is it.

今までさんざん好き勝手な解釈を繰り返して他者を批判してきたひとが、言っていることの誤りを他者に指摘された際に改めるのではなく、そんなことはどっちでもいいんだ、理屈を言うな、大事なことは…、などといって自らの過ちを有耶無耶にしたうえにつまらない経験譚で上塗りすることがある。この仕事においてもそれは多い。

僕らがやっているような仕事は思い込みの強い人が多いようで、そのような方々からたくさんの主張を聞かされて、少なくとも僕は、「デザイン」に疲れ、「手仕事」に疲れ、「職人」に疲れ、「民芸」に疲れ、そしてそれらの中にある「権威と普遍」に疲れきっている。そしてその上で、仕事というものに対して飽くことを止まない。なぜならば、日々の仕事のなかで、これが民藝だ、これが工藝だ、そういえる一つ一つに出会えているから。This is it. こいつが、それですよ。この人を見よ。そう日々言い続けていられることに感謝する。

論文を書いたりすることについて、どうして民藝について調べているのですか、民藝とはかほどに魅力的なのですか、といった主旨で聞かれることが多いのだけれども、単にそれだけではない。仕事をはじめた時、皆が民藝という言葉をそれぞれの意味で使ってるのを見てよくわからないと感じたからだ。

だからこそ、本来「民藝」という語がどのような社会状況や要請から生まれたかを調べ、正文批判のうえで原テキストを読み解くことによって、適当に捉えて得手勝手な文脈で用いてる人をおちょくりたいなと思い、調べ物をはじめた。柳先生はこういった〜、などとしてはじまるお説教を、いやしかし柳は本来それをこういう意味において用いている、それについてより詳しく語っているのはこちらであり、そこでこう述べられている、当時の状況としては…などといって揚げ足を取ることが、単に、楽しい。”Pluralitas non est ponenda sine neccesitate(必要以上に多くを仮定するべきではない)”というウィリアム・オッカムの言葉に従うならば、柳の言葉と相手の言葉とを切り分け、相手が言いたいことが結局ただの説教であることを、説教する自分を高めたいだけであることを明らかにしたいだけなのである。だからといって自分が正しいなんて主張する気は毛頭ない。

ここ(引用者註:法然による「念仏行」の選択を指す)に到達するには二つの著しい内省があったのは言うを俟たぬ。一つは自己についてであり、一つはこの世についてである。前者は自己の小ささに対する深刻な内省である。後者は濁悪に沈む今の世の痛感である。これはやがて「誰よりも悪い自分」ということであり、「どの時代よりも今が末法の時だ」という自覚なのである。(中略)仏法には既に立派な聖道の諸宗があるのである。だが自分の如き下根の者にはその道を進む器量がない。それは聖道門を罵ることではない。自分には分に過ぎる道だという内省なのである。聖道門を捨てて浄土門を選択したのはここに発する。(柳宗悦『南無阿弥陀仏』第十五章「行と信」)

偉そうに僕も柳「先生」の言葉を引いたけれども、ここで語られている「誰よりも悪い自分」が「末世」に生きる困難さについては、日々自覚せざるをえない。間違っていると思われるひとに向かって正しさや強さを口にすることで、僕自身がそのようなひとと同じ顔つきや振る舞いをしていることに、時々、気がつくから。そんな時、むしろ弱さを、ささやかに這いつくばって暮らすその小さな生をこそ、誇るしかないなあとぼんやり思う。そしてそんな弱さの中では、こだわりのある暮らし、などというのも無理だな、とも思う。柳に風、とでもいった緩やかな動きをこそ求めたい。

なので僕は「正しいもの」として、店のものを提示したくない。正しくない僕から、正しくないものを、正しくないことへの自信を持って、来てくださる「正しくない」方に渡したい。風向きに応じて変わり続けることに於いて変わらない、こだわることにこだわらないし、こだわらないことにもこだわらない、そういう日々であり、店でありたい。

ドミノ


卓上でできるちょっとしたゲームが好きだ。点数計算を覚える気がないので、未だに麻雀はできないのだけれど、トランプや花札ではよく遊ぶ。僕の育った家は禁欲というものをすっかり欠いた、よく遊ぶ家だったので、小さい頃などは、蜜柑や甘栗をチップ代わりに賭けて、家族で遊んでいた。

先日、近所のUNTIDYさんで古いドミノ牌を譲ってもらった。象牙と黒檀を真鍮のピンで留めた、ずいぶん昔のオランダのドミノ牌。ちゃんと牌が揃っているので、ときどき夕食後に二人で遊んでいる。机の上に布を敷いて、その上でドミノ牌をじゃらじゃらといわせていると、手の先に当たる牌の感触が心地よいし、牌と牌が当たったときの音もなんだかいい。猫も近寄ってきて牌を触って遊んでいる。遊ぶためのものだから、好きなものの方が楽しめるし、楽しいからますます好きになる。じゃあ自分にとって遊びじゃないものって何だろうと思うのだけれども。

治る

ご飯を食べ、よく眠り、できる仕事をして過ごしていると、朝晩と、からだが治っていくのが実感できる。腫れが引いて少しづつ膝小僧が膝小僧らしい形を取り、膝が曲がる角度が増し、手術を受けた傷口もまた塞がっていく。昨日出来なかったことができるようになる。治るという事自体が嬉しいので、それに伴う痛みも痒みもまたよろこばしい。それにしても不思議なのは、からだが治るということだ。若いってことだよ、周りの人はいうけれど、若ければ治るというわけではない。年をとっても治りが遅いだけで、治ることには変わりない。こどものように尋ねるならば、誰が治してくれてるの?、ということだ。

治る話といえば、盲人を癒したイエスの話が真っ先に思い浮かぶ。道端で物乞いをする盲人を見て弟子たちはイエスに問う。どうしてこの人はめしいてしまったのでしょうか、と。それに対して「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ福音書9.3)と言ってイエスは盲人の目を見えるようにするのだけれど、単にそれをイエスの奇跡的な力、キリスト教を信仰すれば病気が治る、ありがたいありがたい、と考えるのはどうだろうか。

むしろ、そんなご利益主義と裏返しの懲罰主義とも先祖崇拝的な因果律とも関係なく、ただ単に「治るために」「治るという事象が現れるために」こそ、この人は盲目なのだ、と言ってしまっているのだ、と捉えたほうが、僕らにはわかりやすくないか。すれば、治る、と言う事自体が「神の業」なのではないだろうか。その時、イエスが言う神は、スピノザが言う汎神論的な神とほぼ同じところを指し示している。つまり、「自然」だ。ヨハネ福音書には同じような場面がいくつかあるが、安息日に治癒行為をしたことについて非難するユダヤ人たちに告げるイエスの言葉はまた、それに近い。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」(5.17)。安息日にも続けられる「治す」という働き、それは僕らが普段感じている自然であり、「世界」ではないだろうか。治るという事象が自然として存在する僕らの世の中が、奇跡である。

「世界はどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。世界がある、ということが神秘的なのである。(『論理哲学論考』6.44)」

と言ったのはウィトゲンシュタインだけれども、その奥底には同じ思考がある。ぼくらの世界は、傷つく世界であり、同時に治る世界だ。そのことをいま、体を通して理解している。

だから先の問いにはこう答えたい。「あなたの知らないあなたと、あなたが今いるこの世の中の力が手をとりあって、あなたの傷をこっそり治してくれてるんよ。すごいねえ」と。

8月の終わりに足を骨折して手術を受けた。退院後は家でおとなしくしている。もっぱらラジオを聞きながら読書と事務仕事をしているが、NHK-FMのワールドミュージックタイムという番組で、メラネシアン・ブラザーフッドという合唱隊の歌声を聞き、とても懐かしい気がしたので、番組のWebサイトから調べ、CDを手に入れた。映画”Thin Red Line”に使われていたらしい。

彼らは碎けきった英語で、宣教師から伝えられたはずの賛美歌を歌う。「♪おんまはみんなぱっぱか走る…」の曲に合わせて”We are one big happy family”などと歌う。僕はメキシコのブリキ絵やコプトやアルメニアのイコン、フィリピンのサントといった周縁のキリスト教美術がとても好きだけれど、それとおなじ独特の空気、率直なよろこびを感じる。そしてかつ、調子の高さ、重なりあいを聴いていると、当然ながら、奄美や沖縄の島唄との近さ、軽さ、抜けの良さを感じる。

それにしても、「キリエ」におけるマラカスのような音はどんな楽器から響くのだろう。