望月通陽さん

昨年の会に引き続いて今年、というのは望月さんも仕事が多いし無理かなぁと思っていましたところ、大分・サリーガーデンさんでの仕事の帰りによっていただき、ちょうど6月は大丈夫なので、ぜひ、と言っていただきました。以前お話ししたときは、のれんというのは実はすごく難しいと思っている、とのことでしたが、のれん展をしたいな、というわれわれの素朴な依頼に対して、手紙を読んで、だからこそ自分の思うのれんというものについてこの機会に向き合ってみたい、と応えて下さり、今から楽しみです。
この寸法で欲しい、という方などいらっしゃいましたらぜひお声掛け下さい。万全の準備を致します。

望月通陽・授乳の聖母

望月通陽・授乳の聖母
望月通陽作・和紙染額・聖書をめぐる8点 より「授乳の聖母」

先日はお話会に多数お集まりいただきましてありがとうございました。この会は福岡では初の個展と言うこともあり、望月さんのお人柄を紹介するというのがなによりの目的でした。で、こちらはのんびりと間の手入れながらお話を伺うつもりでしたので、まさか僕の口から工芸の話をする羽目になるとは思ってもおらず、矛先が向いた時には狼狽してビール吹きそうになりました。とはいえ、望月さんからは、福岡が自分にとっていちばんすきな町になれて良かったです、こんなに楽しい会は本当に久しぶりでした、また対談しましょうね、といっていただけたのは幸いでした。

それにしても、望月さん達の世代にとって工芸というのは美術と厳然と分かれた、すこし落ちる世界なのかな、そして言われる民芸というのは前の世代の民芸、以前書いた「いかみん」のことだなあ、というのがお話を伺っていて抱いた印象ですが、個人的には工芸も美術も、そして民藝も用語が生まれて80年からせいぜい150年足らずの新しい概念であって、当然ながら概念以前にきれいなものはあっただろう、というのが僕自身の考え方です。例えばラスコーの壁画は美術か工藝か民藝か、なんていうのが意味のない質問であるように。ただ美しいものが目の前にある、ということが楽しい。イロニーではなくてフモール、大きな笑いと愛がある仕事には、僕が思う工藝、民藝的霊性がやどっている、ただそれだけです。そしてその意味において望月さんの仕事はラスコーともクレーとも通じる豊かな曲線と笑いがあるという意味において、美術であり工藝であり、民藝的霊性の宿る仕事ではないかと思っています。お話会の中でも少し話してしまったのですが、近代という幕が開いて以降に成立した「個人の天才」のみが成し得る仕事「表現された自然」が片一方にあり、もう片一方に造形的な才能など無い(と言い切るのも悪けれどもまあ無いじゃないですか)のだけれども、ただひたすらに仕事を為すことによって、たまたま達成できてしまった「無才という自然」の仕事がある、その両者の優劣は無い。むしろ後者の、その才能の無さ、諦念こそがもたらしうる自然もある、ということへの柳の驚きと転回、それこそがロダンやセザンヌを論じた柳が「下手物」に見いだした美に他ならないのかな、と考えています。そして僕はその二つがそれぞれにお互いを愛し、赦し、近代という時代であるが故にその往還が叶うことによって、工藝の世界の振り幅は増していき、楽しくなっていくのではないかと考えています。この意味において、今回望月さんの仕事を紹介できたことは、なによりの糧となりました。颱風一号接近中ではありますが、心の憂さを吹き飛ばす笑いと愛の仕事が、15日までみなさまをお待ちしております!

望月通陽・ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足は

望月通陽・ああ美しきかな善きことを告ぐる者の足は
望月通陽作・和紙染額・聖書をめぐる8点 より「ああ美(うるわ)しきかな、善き事を告ぐる者の足は」

冨山みずえさんの声が五月の野に跳ねる少年のように瑞々しくて、店で聞きながら仕事をしています。ふだん器をならべている時は人の声が少し邪魔になる時があるのですが、望月さんの仕事と冨山さんの声の相性が良くて、たのしいです。

「ローマ人への手紙」10章14節-21節
文語訳より
然れど未だ信ぜぬ者を爭で呼び求むることをせん、未だ聽かぬ者を爭で信ずることをせん、宣傳ふる者なくば爭で聽くことをせん。遣されずば爭で宣傳ふることをせん『ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と録されたる如し。されど、みな福音に從ひしにあらず、イザヤいふ『主よ、われらに聞きたる言を誰か信ぜし』斯く信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による。されど我いふ、彼ら聞えざりしか、然らず、『その聲は全地にゆきわたり、其の言は世界の極にまで及べり』我また言ふ、イスラエルは知らざりしか、先づモーセ言ふ『われ民ならぬ者をもて汝らに嫉を起させ、愚なる民をもて汝らを怒らせん』またイザヤ憚らずして言ふ、『我を求めざる者に、われ見出され、我を尋ねざる者に我あらはれたり』、更にイスラエルに就きては『われ服はずして言ひさからふ民に、終日手を伸べたり』と云へり。

新共同訳より
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

コンサートで求めたCDはこちらです。

望月通陽・わが妹 わがはなよめよ

望月通陽・わが妹(いも)わがはなよめよ
望月通陽作・和紙染額・聖書をめぐる8点 より「わが妹(いも) わがはなよめよ」
望月さんは7日にいらっしゃってお話会、翌日は唐津にあそびに行かれると聞いています。お会いしたい方は是非7日のお話会にどうぞお越し下さい。

雅歌・第4章12節-15節(文語訳より)
わが妹わがはなよめよ なんぢは閉たる園 閉たる水源 封じたる泉水のごとし なんぢの園の中に生いづる者は石榴及びもろもろの佳果またコペル及びナルダの草 ナルダ 番紅花 菖蒲 桂枝さまざまの乳香の木および沒藥 蘆薈一切の貴とき香物なり なんぢは園の泉水 活る水の井 レバノンよりいづる流水なり 北風よ起れ 南風よ來れ 我園を吹てその香氣を揚よ ねがはくはわが愛する者のおのが園にいりきたりてその佳き果を食はんことを

望月さんの仕事の軽やかさは、僕らに静かなゆらぎを与えてくれます。新しい場所に踏み出す勇気を与えてくれます。

望月通陽・なんぢ書き記せ

望月通陽・なんぢ書き記せ
望月通陽作・和紙染額・聖書をめぐる8点 より「なんぢ書き記せ」

先日のコンサートの最後、アンコールとして武満徹「小さな空」の演奏があり、歌える人は歌って下さい、というつのださんの言葉があり、皆でうたいました。声を合わせるというのはとても気持ちが良いですね。

ヨハネの默示録(文語訳) 第19章
この後われ天に大なる群衆の大聲のごとき者ありて、かく言ふを聞けり。曰く 『ハレルヤ、救と榮光と權力とは、我らの神のものなり。その御審は眞にして義なるなり、己が淫行をもて地を汚したる大淫婦を審き、神の僕らの血の復讐を彼になし給ひしなり』また再び言ふ『ハレルヤ、彼の燒かるる煙は世々限りなく立ち昇るなり』ここに二十四人の長老と四つの活物と平伏して御座に坐したまふ神を拜し『アァメン、ハレルヤ』と言へり。また御座より聲出でて言ふ 『すべて神の僕たるもの、神を畏るる者よ、小なるも大なるも、我らの神を讃め奉れ』われ大なる群衆の聲おほくの水の音のごとく、烈しき雷霆の聲の如きものを聞けり。曰く 『ハレルヤ全能の主、われらの神は統治らすなり。われら喜び樂しみて之に榮光を歸し奉らん。そは羔羊の婚姻の時いたり、既にその新婦みづから準備したればなり。彼は輝ける潔き細布を著ることを許されたり、此の細布は聖徒たちの正しき行爲なり』御使また我に言ふ『なんぢ書き記せ、羔羊の婚姻の宴席に招かれたる者は幸福なり』と。また我に言ふ『これ神の眞の言なり』我その足下に平伏して拜せんとしたれば、彼われに言ふ『愼みて然すな、我は汝およびイエスの證を保つ汝の兄弟とともに僕たるなり。なんぢ神を拜せよ、イエスの證は即ち預言の靈なり』我また天の開けたるを見しに、視よ、白き馬あり、之に乘りたまふ者は「忠實また眞」と稱へられ、義をもて審きかつ戰ひたまふ。彼の目は焔のごとく、その頭には多くの冠冕あり、また記せる名あり、之を知る者は彼の他になし。彼は血に染みたる衣を纏へり、その名は「神の言」と稱ふ。天に在る軍勢は白く潔き細布を著、白き馬に乘りて彼にしたがふ。彼の口より利き劍いづ、之をもて諸國の民をうち、鐵の杖をもて之を治め給はん。また自ら全能の神の烈しき怒の酒槽を踐みたまふ。その衣と股とに『王の王、主の主』と記せる名あり。我また一人の御使の太陽のなかに立てるを見たり。大聲に呼はりて、中空を飛ぶ凡ての鳥に言ふ『いざ、神の大なる宴席に集ひきたりて、王たちの肉、將校の肉、強き者の肉、馬と之に乘る者との肉、すべての自主および奴隷、小なるもの大なる者の肉を食へ』我また獸と地の王たちと彼らの軍勢とが相集りて、馬に乘りたまふ者および其の軍勢に對ひて戰鬪を挑むを見たり。かくて獸は捕へられ、又その前に不思議を行ひて獸の徽章を受けたる者と、その像を拜する者とを惑したる僞預言者も、之とともに捕へられ、二つながら生きたるまま硫黄の燃ゆる火の池に投げ入れられたり。その他の者は馬に乘りたまふ者の口より出づる劍にて殺され、凡ての鳥その肉を食ひて飽きたり。

文語文の聖書は訳として適当でない部分があると聞きますが、口にした時のリズムがよくて、好きです。望月さんが、自分はキリスト教の信徒ではないけれど、人について考えると聖書を読んでしまう、と言われていたのにとても納得します。

望月通陽・エマオの巡礼

望月通陽・エマオの巡礼
望月通陽作・和紙染額・聖書をめぐる8点 より「エマオの巡礼」

昨日4月30日は、けやき通りそばの福岡警固教会に於いて、つのだたかしさんと冨山みずえさんによるコンサートが無事開催されました。歌声とリュートが奏でる響きのすばらしさもさることながら、会場となった警固教会の佇まいも素敵で、お互いが引き立てあったよい会となりました。集っていただきました皆さま、ありがとうございます。
また、ちょうど今日5月1日の福岡警固教会の聖日礼拝におけるテーマが「エマオの訪れ」だったこともあり、御礼かたがた参加してきました。江口牧師による、絶望の中にあって新たな生を見出すことについてのお話し、とても染みとおりました。今回ならんでいる望月さんの仕事のなかにも「エマオの巡礼」がありますが、僕らがつねに途上にあること、そして会うべき人、共に過ごすべき人に既に会っていながら、知らずに歩いていることが伝わってきて、とても好きなのです。

ルカ伝24章13節から35節(新共同訳による)
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

「わたしたちの心は燃えていたではないか」という言葉にひかれます。こころが燃えるような静謐な仕事がならんでいます。ご高覧賜りますと幸いです。

追伸。今日でけやき通りにうつって2年になりました。みなさまのご愛顧によって生かされております。ありがとうございます!

望月通陽展・展示案内

望月通陽展望月通陽展
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各会場にて、以下の作品を展示販売しています。(原画作品の一部には非売品有)5月のみどり濃いけやき通りを彩る望月通陽さんの作品を、散策がてら、ごらんください。

ブックスキューブリック
 「道に降りた散歩家」原画 7点
 「方舟に積むものは」原画 4点
 「ミラクル」原画 2点

東方遊酒菜ヌワラエリヤ
 「僕たちが聖書について知りたかったこと」原画 1点
 「虹のかなたに」原画 1点
 「根府川へ」原画 1点
 「光文社 新訳シリーズ」原画 3点
  筒書きタペストリー  3点

珈琲美美
 絹麻布染額 9点
 ブロンズ像 2点
 筒書きタペストリー 1点

工藝風向
 和紙染額「聖書を巡る8点」
 絹麻布染額 5点
 筒描きタペストリー たくさん
 Pictoシリーズ(古い絵葉書に描き足したもの)たくさん
 ペン画「Wedding Cantata」7点
 ブロンズ像 8点
 鋳造硝子像 4点
 陶板(内田鋼一氏との合作)6点

望月通陽さんに会いに

望月さんから、東京で二つの個展が行われているので一度見ておいてもらえたらうれしいです、そしてそのあと静岡の我が家へも、と声をかけていただいたので、行ってきました。静岡は微妙に福岡から行きにくい場所の一つですが、ちょうどルーマニアのガラスイコンを運ぶ必要もあったので、新幹線で往復することにしました。米原の雪や富士山を見ることができて、東海道新幹線の楽しさを久しぶりに満喫しました。

東京駅でガラスイコンをお渡しし、安心して会場へ。まずは小平市の松明堂ギャラリー。松本清張のご子息がひらかれている書店だそうです。その地下で染めを中心とした20年間の仕事の集大成が展示されていました。もうひと会場は京橋のギャラリー椿。こちらではペン画や鋳造ガラス、染めといった仕事。

どちらも充実の仕事でした。望月さんの仕事は僕が普段扱っているものよりも、はっきりと望月さんの仕事であることが分かるものですが、しかし実際に目の前に立って仕事を見ると、無駄な力がどこにも無くて、とても心地よい。なんというか、芹澤や棟方の仕事を見た時に感じるものと同じ心持ちがします。それは軽さと清しさです。名前が今あろうが無かろうが、100年たったらみんな死んでる、忘れてる。そんなことどうでもよくて、作品が今、この瞬間にいきていることが分かればそれでいいなと思うのです。
翌日は朝、HPE・谷さんの事務所に行ってものを選ばせてもらいました。そして民藝館へ。今回の企画展も面白いですし、常設の場所にふだん出ないものがたくさん出ていて、しかも展示がいい。オシラサマや石偶や蛙股など、力あるものがたくさんです。2月12・13日には当店でも扱っている豊永さんによる琉球張子絵付け体験が行われるようです。お近くの方はぜひ。
そのあと友人に会い、昼すぎから静岡へ。望月さんのお宅にうかがうといきなりお酒。それからお話ししつつも酒宴は続き、会の詳細について話ができたのは翌朝でした…。

しかしながら、とても素敵で、しかもあまり人に言えないことをいろいろお伺いできてよかったです。思わぬ所での意見の一致があるとほんとうに仕事に向けて心強いです。というわけで、本年4月29日から5月15日まで「望月通陽展」を開催します。5月7日土曜日には、望月さんのお話会もあります。詳細はまた後日になりますが、けやき通りの他のお店にもご協力いただき、にぎやかな会にしたいと思っています。