鳥取行き


鳥取県というと日本で一番人口が少ないことで話題にされがちですが、実際は美しい海と山々に囲まれた実に恵み多い土地でした。それは、高速道路の延長工事のために地面を掘り返したら弥生時代の遺跡がどんどん見つかるので工事が全く進まない、というお話からもわかります。古代からずっと人が住み続け、それを養えるだけの土地の力があった地域なのだと思います。満ち足りた人びとの住むくに、という印象を受けた2日間でした。

鳥取といえば大学の先輩でもある吉田璋也が愛し育てた民藝模索の地、それに加えて久々に新しい窯へお伺いするということで、風向ふたりで訪問する予定でしたが、代表が怪我のために一人で参加。スタジオ木瓜の日野明子さんをアドバイザーとして無理やり巻き込み、鳥取県庁の大江さんが車を駆って案内してくださいました。

まずは坂本實男さんと章さんの中井窯。仕事ぶりをよくあらわす整然とうつくしい仕事場。そして柳宗理氏自らご持参のエレファントスツールがいい感じに古びていてうらやましい。

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掛分は、駒場や鳥取の民藝館にある昔の因久山や牛ノ戸のようなやわらかみがあるものにどうしても惹かれます。

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山下清志さんの延興寺窯。土はすべて地元の陶土、釉薬は裏の雑木林や田んぼの藁を原料にしているとお話していただきました。登り窯は我々と同世代の1979年製。いま窯としてちょうど調子のいい時期だそうです。陶土は良い粘土が出るそうで、水樋して寝かせる時間も少なくてすんでいるとのこと。今年の1月はお嬢さんの修行先だった北窯の松田共司さんが窯を訪問されたと、ご家族で嬉しそうに話してくださったのが印象的でした。我々も共司さん大好きなので、お気持ちよくわかります。

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山陰はたたら製鉄が歴史的に盛んなところなので、鍛冶屋さんも見てきました。廻りは果樹園に囲まれた山間のこの中島刃物さんは、使う人の体格によって鋤鍬の柄の角度や長さを変えていました。54度、55度、58度と細かい角度設定。日々道具を使う人との距離の近さを感じました。鳥取のおいしい農産物はこういう方々の支えがあってこそ生まれるのでしょう。

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左は近所の農家から直しの依頼があったもの。鳥取の仕事として鍬鋤を店に並べてみたいと思ってしまいましたが、福岡の皆さま、需要はおありでしょうか。

他にも織りの山下さんのところや木工所、郷土玩具などいろいろ巡りましたが、今日のところは時間切れです。またご報告できればと思います。

北窯に行ってきました

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沖縄に行ってきました。明るい日差しに、このごろのざわついた気持ちが落ち着きました。みなさまにもこの明るさを伝えてくれる器、届きましたらまたご報告いたします。

旅の支度・2010年末版

年の瀬になって振り返ると、1月の企画展がずいぶんと前のことに思えます。さて、今年は国内、国外あちこちへ行った年でした。出かける際にはいつも細々と準備をするのですが、以前書いたことから変わったこともいくつかあるので、自分への備忘も含めてつらつらと書いてみます。

1. クレジットカードがあればいい
2. 耳栓はすばらしい
3. 鞄は小さくて良い
4. SIMロックのかかっていないスマートフォンがあると荷物が減る
5. 地図と新聞を地元で買うと楽しい
6. アスピリンと柑橘類で疲れをためない
7. 栓抜きがあると幸せ

1. クレジットカードがあればいい

今年海外で一番難儀したことは、メキシコで全くといっていいほどトラベラーズ・チェックが使えなかったことでした。一方、ATMはどんな田舎に行ってもあります。僕はクレジットカードと国際キャッシュカードが一緒になった都市銀行のカードをもっているのですが、どちらを使って現金を引き出しても、日本円現金からの交換やトラベラーズ・チェックよりレートが遙かに良かったです。ですので以後は、必要になった時にある程度の額を引き出しつつ、宿や交通機関など、払える場所ではすべてクレジットで払う、という方法に変えました。困ったことはありません。むしろ現金を持ち歩くことがもたらすリスクが無くなったこと、帰ってきてからの経費処理が楽なことなど、良いことずくめです。航空券を買う時もクレジットで支払っています。利用付帯の保険がつくからです。結果、HISなど現金での支払いを求める旅行会社を使わなくなりました。

2. 耳栓はすばらしい

飛行機や長距離バス、電車などに乗る時は耳栓をしています。iPodなどで音楽を聴くのも良いのでしょうが、飛行機の離発着時には使えません。ですので最近は、飛行機に乗るとすぐに耳栓をします。機内放送ぐらいの音は聞こえますし、一方耳障りな高い音が聞こえなくなります。音が与えるストレスというのは意外と大きなものだということに気がつきます。よく寝られて快適です。

3. 鞄は小さくて良い

空港で預ける鞄は以前は大きめのものを使っていましたが、自分の店で扱うものが小さくて重いものに限られてきたこと、オーバーチャージの制限が厳しいこともあるので、荷物を23kg(だいたいこのくらいまでならどの航空会社も許容してくれる範囲なので)以下に納めることの方が重要になってきました。鞄の自重で8kg、なんて論外です。ですので、容量35リットル程度で2kg位の軽めの小さな鞄に無印で買ったTSAロックの小さな鍵を付けて使っています。他は、普段持ち歩いているトートバッグだけです。トートバッグの口を凧用にいつも持ち歩いている木製の洗濯ばさみで留めています。荷物がかさばらないと、足取りも軽くなります。

4. SIMロックのかかっていないスマートフォンがあると荷物が減る

上にも多少関係しますが、SIMロックのない携帯電話を以前から使っていましたが、スマートフォンになってますます便利になりました。空港やコンビニエンスストアで売っているSIMを差せばすぐに現地番号で電話が使えます。業者や宿や交通機関に電話やSMSで連絡を取ったり、店に届いているメールを確認したりする他、目覚まし時計にもなれば、いざとなればカメラにもなるので、他の荷物を減らすことが出来ます。空港はもちろん、宿やカフェなどでWIFIが使えるとネットでの調べ物もすぐにできますし、メキシコではスペイン語辞書が役に立ちました。あと個人的には、電子コンパスは必須です。地下鉄からあがった時に、北がどこか分からなくなることがありますので。

5. 地図と新聞を地元で買うと楽しい

ひとりでの出張だと、ガイドブックに載っているような楽しみ方とあまり縁がありません。ですから、自分の予定の範囲から想定される場所をある程度調べておいた上で、紙の地図は現地に着いたら買い、書き込みながら使います。地図を読むのも楽しみです。帰りの荷造りに使う新聞も、地元のスタンドで買ったり、貰ったりしています。地元のスポーツ新聞から経済紙まで、いろいろ買ってわからないながらに楽しんでいます。新聞紙は荷造りの際にも活躍します。

6. アスピリンと柑橘類で疲れをためない

人によって合わない方はいますので自分以外にお勧めはできませんが、アスピリンは解熱作用があるだけでなく筋肉痛も抑えてくれます。常備薬としていつも持っているアスピリンですが、旅の間は一錠を半分に割って一日一回100mg程度の量を飲むようにしています。少量のアスピリンは血栓予防にも良いらしいですし。また、旅先では果物をなるべくとるようにしていますが、とくにクエン酸が含まれる柑橘類を食べています。レモン果汁が入ったミネラルウォーターなどとも組み合わせて、なるべく疲れをためないようにしています。

7. 栓抜きがあると幸せ

僕はビールが好きなので、旅先のスーパーマーケットなどでビールを買うことがあるのですが、缶ビールより瓶ビールの方がおいしいし、瓶しかない土地もあります。なので「アサヒビール・レモンシトロン」なんて書いてあるような、小さくて単純な栓抜きを持っていきます。十徳ナイフやコルク抜きは飛行機の持ち込み荷物には入れられませんが、栓抜きだとまあ大丈夫。凶器に使うのなんて昭和のプロレスラー以外には不可能ですから。

そんなこんなの準備も旅の楽しみです。今年も楽しい旅を重ねることが出来ました。来年も新しい出会いを楽しみにしています。

ソウル・釜山へ

企画展は始まっていますが、すこしご報告。

先日、九州大学人文科学研究院の後小路先生とその学生ご一行にくっついて、ソウル・釜山に行ってきました。ことしは白樺派100年であるとともに、朝鮮併合100年です。「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」から100年です。併合から12年が過ぎた1922年、朝鮮総督府建設のために取り壊されようとしている光化門について、柳は「許してくれ、おれは罪ある者の凡てに代わってあやまりたい。おれはその記にもと思って今筆を執っているのだ」という心持ちから「失われんとする一朝鮮建築のために」を公表しました。結果、この文章による世論の高まりから光化門は移築されたものの、朝鮮戦争の際に焼失。以後朴政権下に再建、更に近年再復元されていました。今回、その光化門に行くことができたので、実物を見ながら、持参した岩波文庫『民藝四十年』に載っている写真と見比べることができました。柳もこの地にいたんだなとおもうと、思いもひとしおです。光化門の横には「ああ、門前に安置せられた二個の大なる石獅よ、よくお前たちは永い間王宮の正門を守ってくれた」と記された石獅子がちゃんと揃っておりました。その門の内側・景福宮には1924年から日本の敗戦まで、柳が浅川たちと作り上げた朝鮮民族美術館がありました。むろん総督府の許可のもと、文化統治の一環として許された自由ではありましたが、それが存在したことが、どれほどのちに影響を与えたことかと思います。

また、ソウルでは若い現代美術家、オ・スックン(oh suk kuhn)氏とチョン・ヨンドゥ(鄭然斗)氏の話をうかがえたこと、大阪・東洋陶磁美術館の樋口学芸員にお会いできたことが何よりの喜びでした。その後、釜山ビエンナーレにも行きましたが、いちばん心に残ったのは釜山近代歴史館です。鈴木召平さんが常々話す「玄界灘の貴婦人」金剛丸の絵はがきなどもありました。いろんなもの、人に出会い、話を聞いて、韓国にはまだまだ近代が残っていると思いましたし、それがかえってとても心地よかったです。

そういえば、ソウルで凧と糸枠をひとつ買いました。こちらについてもまたいつか、ご報告します。

富山方面に行ってきました。

「美の法門」記念碑と、柳が執筆した部屋の床。

富山県・南砺市において民藝協会の総会があったのでまたこんなルートで行ってきました。往復2200kmくらいです。

総会では、城端別院善徳寺において柳宗悦50回忌の法要や、宗教学者である中沢新一氏が参加するシンポジウムがありました。今回出かけたのは中沢氏に会うためと言っても過言ではありません。僕は近頃、柳宗悦の行為的思想、特に「直観」が、西田幾多郎の「場所」や鈴木大拙の「霊性」にどう結びついているかという仕組みについて考えているので、西田幾多郎と田辺元について『フィロソフィア・ヤポニカ』を著した中沢新一氏に聞きたいことがあったからです。シンポジウム自体は不完全燃焼でしたが、そののち、懇親会がおわるまで、じゅうぶんに話をうかがえたので大満足です。韓国からいらっしゃった研究者であるイ・スンヒョンさんともお話ができて楽しかったですし、お酒もしっかり入ったところで写真まで撮ってもらいました。

ほか、砺波で見かけたもの。下掛宝生流ワキ方・松本謙三生家跡。

翌日は金沢方面、西田幾多郎哲学館と21世紀美術館によってから大阪日本民芸館へ。今回はEXPO70当時の展示を再現したそうです。大きいものの展示が多く、この当時の好みの強さが伝わってきます。で、この日は奈良泊。翌日は京都で調べ物と学生の頃働いていた蕎麦屋さんへ行き、その後、天王寺の大阪市立美術館で準備が行われている国展会場へ。来年は福岡で国展が開かれるとのことで、展示手伝いをしてきました。柴田さん、平山元康さん、栗田荘平さん、松本行史さん、という大阪日本民芸館の展示替えの面々に加え、阿部眞士さん、石川昌浩さん、井上尚之さんといういつもの作り手、さらに宮崎の松形さんや滋賀の河井さんと、知った顔に会えたのもよろこびです。

奈良からの途中で寄った唐招提寺。

懇親会まで参加しお酒をいただいたので、井上尚之くんに運転を代わってもらい、石川・松本両君と合わせ四人で倉敷へ。倉敷では「天満屋くらしのギャラリー」の仁科さんと皆で飲み、そのまま泊。翌日は日本郷土玩具館での石川くんの個展、倉敷民藝館、融民芸店に顔を出してから岡山のGalleryONOの小野さんのところへ。11月の企画展について相談。さらに仁科さんのところへ再び行く。それから倉敷方面に進み石川くんの工房へ。少しものを分けてもらい、いざ九州へ。帰り道はずっと井上くんが運転してくれたので助かりました。同じ方向を向いて仕事が出来る仲間にたくさん会えて、元気になって帰ってきました。

来週からはユッカヌヒ展です。品々揃え、お待ちしております。

フィロソフィア・ヤポニカ

沖縄行き

北窯の窯出しがありましたので、また行ってきました。6月中旬までには届くでしょう、たぶん。しかしながら、沖縄はもう夏でした。オリオンビールが弥増しにおいしいです。また、来月予定の企画展のため、”Road Works”の豊永さんを訪ねてきました。新しい仕事も見せてもらって、楽しみが増しております。いずれお知らせいたします。

メキシコにて

話が前後しておりますが、今回メキシコに行った理由は、ブリキ絵を探すためです。そもそもブリキ絵とは何かについて、以前個人的に作った冊子のために書いた文章をもって説明します。

「ブリキ絵」とは

本冊子において取り上げているのは、メキシコのキリスト教教会に奉納された、ブリキ板に描かれた祭壇画「RETABLO(EX-VOTO=奉納物とも呼ばれる)」である。なお、本冊子においてはこれらをスペインおよびスペイン旧植民地地域におけるキリスト教会美術としての祭壇飾りである祭壇画および背障、垂れ幕などを含む宗教用語、ならびに祭壇後方に位置する飾り壁を意味する宗教建築用語としての「RETABLO」および、一般的な奉納品も含む用語である「EX-VOTO」と区別するため、以下の文章においては、「RETABLO」を含む世界各地の民藝品を数多く蒐集していた、型絵染の重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、染色工芸家でもある芹沢銈介(1895-1984) が用いた呼称に従い、「ブリキ絵」と呼ぶ。

本冊子においては著者が蒐めたブリキ絵100点を示し、各図に記された奉献文の概訳ともに解説を行う。一部のブリキ絵においては欠損が甚だしく、文字の判読がかなわなかったものがあるため、それらに関しては図像から読み取れる解説にとどめる。

「ブリキ絵」誕生まで

ブリキ絵は1800年代末にメキシコに生まれ、1900年代初頭よりメキシコ中央西部地域において特に広がりを見せた。メキシコにおけるキリスト教は、そのはるか以前1519年に、スペイン人コルテス(Hernan Cortes,1485-1547)によるメキシコ征服以降、ヌエバ・エスパーニャ副王領(所謂「新スペイン」)としての植民地支配と共に、征服者の信仰として、また被征服者を統べるための道具として持ち込まれたことにはじまる。現在メキシコ合衆国の首都であるメキシコシティが、14世紀から16世紀まで存在したアステカ王国のかつての首都・テノチティトランであり、またメキシコにおいて最も信仰される「グアダルーペの聖母」(後述)を奉じたカトリック教会であるグアダルーペ寺院もやはり、アステカの神殿があったテペヤックの丘に建てられているように、スペインより持ち込まれたキリスト教は、メキシコの地に以前よりあった先コロンブス期におけるオルメカ文明、さらに14世紀におけるアステカ文明といった先史の痕を消すために、漸次置き換えられてきた。

このようにしてキリスト教がメキシコに持ち込まれた当初より、祭壇飾りとしての各種RETABLOはその地における布教がどの程度進んでいるかを示すパラメータとして重要な地位を占めていたが、大衆の信仰表明のための手段としては一般的ではなく、富裕者からの寄進が主であったようである。その後、キリスト教がメキシコにおける原信仰と一定程度の融和を遂げた段階で、大衆の祈願・聖像への信仰を表現する手段、彼らが暮らす上で避けることのできない不安からの解放や要求の成就を示す手段としてのブリキ絵が生まれた。当初、奉納の際、安価に調達できるキャンバスとしてブリキが選ばれたようであるが、ブリキ絵は必ずしもブリキだけではなく、布地や木、合板などに描かれることもある。

一枚のブリキ絵は次のような経緯で生まれる。何かしらの願いや祈りを捧げたいと願うものは、まず教会もしくは礼拝堂において聖像に対して祈りを捧げる。その後、祈りが成就したと自らが認めるところによって、「レタブレロス=RETABLEROS」もしくは「レタブレタス=RETABLISTAS」と呼ばれる職人にブリキ絵を描いてもらい、これを教会や礼拝堂など、恩寵をもとめる崇拝者のいる場所に飾る。これらの一連の製作過程は、現在においても変わらない。

「レタブレロス」は現在のメキシコにおいては専門職として分化しているが、かつては印刷業を営む者や教会において同様の業を行う者が作成を請け負っていたようである7。彼らは、日常自らが営む暮らしに残るオルメカ文明やアステカ文明における様式を取り込みながら、スペインにおける美術様式であったロマネスクやゴシック様式の影響を受けつつブリキ絵を制作することによって、ブリキ絵を独自の様式をもつ絵画として発展させてきた。

ブリキ絵の絵画的な特徴

ブリキ絵は、概ね下記の三つの基本的な要素によって構成されている。

  1. 誓願にふさわしい聖像
  2. 強く訴えかける表現、もしくは奇跡的な出来事
  3. 上記の出来事についての、文字による説明

「1」の聖像については、おおむね請願者の好みに依るところが大きい。聖母信仰が盛んなメキシコにおいては、最も信仰されるグアダルーペの聖母、オアハカの守護聖母である孤独の聖母など、多くの聖母が存在するため、彼ら聖母が表現されることが多い。また、守護聖人の役割に応じて選択されることもあり、例としては、恋愛の成就などについては、聖アントニートがその役を担う者として選ばれることが多い。

次に「2」であるが、ブリキ絵において特に重要な要素とされるのは、この出来事の描写である。請願者の祈りとその成就を表現するにあたっては、レタブレタスがもつ経験、請願者から、彼らに起きた出来事を聞き取り、生かすための想像力、そして「超越的な存在」に対する賛美の気持ちを描写するための技術が要求される。

「3」の文字による説明は、古いブリキ絵においては通常画面の下方に記される例が多い。テキストは聖像の名前ならびに聖像に対する感謝の言葉を表し、また、その出来事の状況や場所、日付、請願者の名前などを含むこともある。

このように、ブリキ絵がメキシコの民衆の祈りによって生み出された絵画であり、祈りを示すために用いられる点においては、日本における絵馬が民衆の祈りによって描かれ、神社に奉納されるのと同じように見える。しかしながら、ブリキ絵に描かれている事跡が、専ら実際にあった出来事への感謝、事件からの救済である点が、大きく異なる。彼らにとってブリキ絵とは失われたものの回復を示す表現であり、奉献文にしばしば記されているように、「インフィニタス・グラシアス=限りない感謝」は、聖人への感謝であると同時に、かつて失われた自己の一部への追悼を込めた感謝でもある。こういった表現が含まれているという点において、同時代における日本の絵馬が「おきてほしいことへの願い」をしるしているのに比べ、より素直に彼らの生活感情を表現したものであるように思われる。

近代メキシコにおける「ブリキ絵」

近代メキシコ美術において最も重要な位置を占める画家であるフリーダ・カーロ(Frida Kahlo,1907-1954)もまた、幼時からの病や事故による後遺症、夫である画家ディエゴ・リベラ(Diego Rivera,1886-1957)との関係など、自らの抱える不安と苦痛を、自ら描いたブリキ絵によって表現した。フリーダ・カーロが描いた他の作品にも、ブリキ絵が持つ様式性を取り込んだ作品例が散見される。またフリーダ・カーロは、多くのブリキ絵を収集していたことでも知られるが、それらは現在、フリーダ・カーロ博物館として公開されているメキシコシティ郊外のフリーダ・カーロ旧宅「青い家(La Casa Azul)」に、前述の自らが描いたブリキ絵と共に展示されている。

フリーダ・カーロとブリキ絵の関連性については、下記のような文章もある*1

彼女は奉納画を再発見し、民衆的な荒々しい表現を、特殊なテーマと判型と様式に凝縮した最初の画家だった。フリーダの作品と奉納画の関連性について研究したパウル・ヴェストハイムは、こう分析している。

「奉納画にこめられた民衆の魂からフリーダ・カーロがとりだしたものは、生命への肯定のほかに、表現形式の率直さと単純さ、嘘を隠したような方法によるいわゆる真実の実現である。なぜなら、現実の世界、自然の世界、対象物の世界、発明の世界と、象徴の世界、非現実の世界を隔てる境界線などないからだ」

民衆的な奉納画では、救い主がつねにイエス・キリストや聖母マリアや聖人の姿で描かれるが、フリーダの絵画のなかでは象徴的な物体がそれらに取って代わったり(『ヘンリー・フォード病院』では、いくつもの物体が空中に浮かんでいる)、彼女自身の救い主が選ばれていたりする(『マルクスが病人に健康を与える』でのマルクス(下図)、『フアン・ファリール博士の肖像画と一緒の自画像』でのファリール博士など)。

また本冊子におさめられたブリキ絵にはいくつか、1910年代から1920年代に制作されたものが見られるが、これらに記された事跡および聖人の選択、そしてブリキ絵の筆致の変化そのものが、同時期にメキシコにおいてエミリアーノ・サパタ(Emiliano Zapata Salazar,1879-1919)らによって起こされたメキシコ革命(1910-1929位)および、1920年代から1930年代に、前述の画家・ディエゴ・リベラらによって起こされた社会主義思想に基づく絵画運動であるメキシコ壁画運動(Mural)の動きを映している形跡がみられる。『ちいさな壁画運動』とも呼びうるこれらの可能性については、より多くのブリキ絵を比較していくなかで、今後検討を行いたい。

(後略)

というものです。で、今回見つけたブリキ絵から数枚。年代や作り手ごとに変化があります。

左:1928年・中:1943年・右:1970年頃

ですので、今回の旅行ではブリキ絵を探すことはもちろんですが、メキシコでの暮らしと信仰と芸術がどう結びついているのかをこの目で見ることが何よりの願いでした。そしてその願いはしっかりと叶えられました。人類学博物館やルイス・バラガン邸といった「名所」だけでなく、グアナファトにいく途中に見える小さな村々に建つ教会、道行く人びとの優しさから、しかと教えてもらいました。

宿の前の教会とフリーダ・カーロ美術館通称「青い家」

グアダルーペの聖母教会と、御本尊であるグアダルーペの聖母像

文部省の建物に描かれた壁画について懸命に説明してくれる文部省のおじさんと、共産党の集会

ご飯もおいしいし物価は安い、人は親切、メキシコは素晴らしい国でした。また必ず近いうちにたずねます。皆様も是非。

*1:「フリーダ・カーロ 痛みこそ、わが真実」,クリスティーナ・ビュリュス著・堀尾真紀子監修・遠藤ゆかり訳,2008.12,創元社,P.52-53,Frida Kahlo Je peins ma ralit,Christina-Burrus,Gallimard,2007

沖縄

メキシコの報告もまだなのですが、読谷山焼北窯の窯出しに行ってきました。いい出会いがひとつありました。次につなげていくのが楽しみです。

メヒコ行ってきました。

捜し物を求めてメキシコに行ってきました。首都であるメキシコシティは親切な人びとの住む典雅な古都でした。また、長距離バスに乗って郊外に出ると、どこまでも広がる青い空が心地良かったです。詳しくはまた改めまして報告いたします。

出張1200km

こういう経路で出張に行ってきました。昨年の日本民藝館展でお会いすることのできた若い作り手のもとを訪ねることが大きな目的のひとつです。新見市で家具を作っている松本行史さん、4月に個展をお願いしている石川昌浩さん、出雲の南、雲南市で白磁の仕事をしている石飛勲さんの仕事場に伺ってきました。

また岡山ではGalleryONOの小野さんをたずね、企画展についてのお願いにいきました。小野さんからは真庭市目木にある「さん・はうす」の山崎さんを紹介いただいたので早速たずね、カレーを頂くとともに、裏の「長屋」を見せてもらいました。いや、驚きました。これは行かないとわかりません。

その後雪の蒜山をこえ、松江から出雲へ。松江で下岡由枝さんが二人展をしていたので顔を出し、ハーンの家の前も通り、それから出雲大社に行ったことが無いので近くの宿を取りました。レトロモダンというよりひたすら古風な宿でしたが、節分用の注連でしょうか、不思議なものが掛けてありましたし、銭湯のような温泉がついていたので疲れも取れました。

出雲大社は大遷宮の真っ只中で本殿は囲われていましたが、さすがオオクニヌシノミコトというお社でした。街のあちらこちらに昨年末見た注連繩がありました。

また、せっかくはじめて島根に来て出西窯に行かない手も無いのでたずね、前日お会いした天満屋・くらしのギャラリーの仁科さんに弘光氏が個人の窯を作っている話を聞いていたので窯の方に教えてもらい、多々納さんのお宅を訪ねました。多々納弘光さんの奥様、そして真さんに話を伺っているとご本人が戻ってこられました。以下語録。

「昭和30年代に生家が鰻屋だという上村くんという若い男がやってきた。彼は実に魅力的な男でありかつ眼が利いて、その頃は金城次郎さんのものをたくさん仕入れていた。それでも売れなかった分をよく家に持ってきてくれて、多々納さん、これでご飯を食べてみてくれよとよくマカイをくれたものだった。上村くんも亡くなり僕も人生のおわりに近いけれども、またこうして若い人が柳先生と縁を結び、工藝店を志して九州の地からやってきてくれる、こんなに嬉しいことはないねえ」

「柳先生も浜田先生も河井先生もみんなよろこぶことのうまい人達だった。そして皆さんそれぞれすこしずつよろこぶポイントが違っていたけれど、それが先生方の素晴らしさを引き立てあっていたんですよ」

「自分は今は窯のものとは違うものを作ろうということでいろいろと考えていたら、昔のスリップウェアの本に”put on dust”と書いてあったのを参考にして、籾灰を使って型物を焼くことにした、スリップウェアというのは楽しいね」

たくさんのお話を聞かせていただけたこと、本当にありがとうございました。そして弘光さんが作られているものから二点選ばせてもらいました。正直、売りたくないですが、「がんばって商いを続けてくださいね」という弘光さんのお言葉にそって売る気でいます。お気になる方、おたずねください。

2010.02.10追記:左の角鉢売れました。

2010.02.14追記:右の角鉢売れました。どちらもものを作る方に求めていただき、何よりの嬉しさです。

というわけで、石飛さんにはスープ用の平皿や大きめの碗などを頼ませてもらいました。松本さんの家具は10月に紹介したいと考えています。そして石川さんの硝子が入荷しています。2月末からは福岡市美術館で開かれているエジプト展と中国陶磁展にあわせ、古く美しいものの会を開きます。しばらく常設ですが、どうぞ脚をお運びください。