Merry Christmas


小さくて柔らかい嬰児がこの世にうまれる、そのこと自体が奇跡ですよね。

この地に野宿して、夜群を守りをる牧者ありしが、主の使その傍らに立ち、主の榮光その周圍を照したれば、甚く懼る。御使かれらに言ふ『懼るな、視よ、この民一般に及ぶべき、大なる歡喜の音信を我なんぢらに告ぐ。今日ダビデの町にて汝らの爲に救主うまれ給へり、これ主キリストなり。なんぢら布にて包まれ、馬槽に臥しをる嬰兒を見ん、是その徴なり』忽ちあまたの天の軍勢、御使に加はり、神を讃美して言ふ、『いと高き處には榮光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ』御使等さりて天に往きしとき、牧者たがひに語る『いざ、ベツレヘムにいたり、主の示し給ひし起れる事を見ん』乃ち急ぎ往きて、マリヤとヨセフと、馬槽に臥したる嬰兒とに尋ねあふ。既に見て、この子につき御使の語りしことを告げたれば、聞く者はみな牧者の語りしことを怪しみたり。而してマリヤは凡て此等のことを心に留めて思ひ囘せり。牧者は御使の語りしごとく凡ての事を見聞せしによりて、神を崇めかつ讃美しつつ歸れり。八日みちて幼兒に割禮を施すべき日となりたれば、未だ胎内に宿らぬ先に御使の名づけし如く、その名をイエスと名づけたり。[^1]

みなさまも、良いクリスマスをおすごしください。

[^1]: ルカ福音書 2章 8-21節 文語訳

柳宗悦とブリキ絵

迷子の母豚
en las afueras de Puebla en el ano de 1927 pascuala garcia perdio una marrana prenada y se encomendo a la virgencita de san juan y al cabo de un mes la vino a encontrar con todo y cria por lo que da infinitas gracias
1927年、プエブラの町外れにて、pascuala garciaの家の身ごもった母豚が迷子になりました。サンフアンの聖母に託したところ、1ヶ月後に全て見つかりました。ありがとうございます。

最近長い文章を書いているので、こちらも長くなってしまいます。くだくだしくてごめんなさい。

さて、ブリキ絵を芹沢けい介(けいは金偏に圭)が持っていることは以前書いたかもしれませんが、柳宗悦にはブリキ絵のなかまについて触れている文章があります。昭和27年(1952年)12月、柳はバーナード・リーチや濱田庄司とともにサンタフェに旅をし、「米国への旅」という文章を残しています。この文中に登場します(文中では「レタブロス」として表記)。その一部をいささか長いですが新字・新かな表記にしたうえで引用します。

一.サンタ・フェーにて((「米国への旅」『柳宗悦全集第17巻』所収,p.542,筑摩書房より))
(前略)
もともとこの町には二つの魅力がありました。一つはスペイン人がこの地方に残した宗教的な彫刻や絵画なのです。前者を「ブルトス」と呼び、後者を「レタブロス」と言い、総称して「サントス」と名づけているものです。「サントス」はスペイン語で「聖者」の意味です。もともとサンタ・フェーという町の名自身が宗教的な名で「聖なる信心」を意味します。山の名さえ「血の山」と云われるものがあって、山の土に夕日が赤くあたる時、イエスの血を想いみたのです。遠く故国のスペインを離れ、果てしもない国土をさまよって開拓の仕事に疲れる移民達は、信仰に心の糧を求めたのでしょう。併し会堂を建てるにしても、あり合せの材料を用いるより仕方がありませんでした。祭壇に聖像を据えるにしても、壁面に画像を描くにしても、一人の彫刻家も画家も持たない彼らでした。只伝統をのみたよりにして、彼らを守るもろもろの聖像を作るのは、文学にも暗い信者たちに委ねられた仕事でした。彼らは貧しい木片をとり、僅かの道具をつかい、幾許かの彩料を得て、それらの聖像を作り、或は会堂に或は家庭に安置して、つきぬ祈りを捧げました。是等の素朴な作品が今日も残り、遂に心ある人々の注意をxうけて、展覧会が遠くニューヨークで催され、又アナヴァーで開かれたりして、幾人かの研究者達によって、幾つかの本が現れるに至っているのです。それは丁度日本の小絵馬に近い性質のものですが、もっと宗教的情緒が濃く、性質としてはロシアの「イコナ」に近いものです。ですが、それより一段と質素なもので、宗教画が様式化される以前の、原素的なものと云ってよいでありましょう。題材はイエスやマリアはもとよりですが、民間で慕われた色々の聖者達、例えば聖アントニオとか、聖バルバラとか、聖ファエルとか、聖ジェロームとか、その種類は大変に多いのであります。
 是等のものを見ますと、如何にも純真な信心そのものの表れで、教学などから受ける信仰とは全く違うものであります。宗教の宗教とでも云ったらよいものが、目前に現れてきます。是等のものは、何も名だたる芸術家達の作品ではなく、全く無銘の只の信者が作ったものです。それが吾々に教える真理は、どんな人がどんなに描こうと、もしその人が純であるなら、何ものをも真実に美しくするということであります。ここが今日の芸術家達にとって、大きな問題を投げかけてくる点です。是等のものの前に立つと、誰も吾が身の汚れや濁りを覚えるでしょう。そうして多くの芸術家達が、如何に多くの過ちを既に深く心に於て犯しているかを顧みないわけにゆかないでしょう。
 是等の「サントス」はそんなに古いものではありません。大体百五十年前から百年位前までに、このニューメキシコ地方で生まれたものなのです。併し今から百年ほど前に、欧州から来た大司教の命で、卑俗なものとしてサントスは焼却の禍いに会い、その大部分を失ったと云います。その愚かさを嘆かざるを得ません。併しその美しさが認められる日が漸く到来して、有難いことだと思います。
(以下略、インディアンの工藝について記している。)

柳らしい筆致によって魅力が描かれています。小絵馬やイコンと結びつけるのも的確でしょう。当然小絵馬やイコンがそうであったようにレタブロス、ブリキ絵もまた「他力」への祈り・賛美をあらわすためのものだからです。また、『美の法門』が昭和24年、『南無阿弥陀仏』が昭和30年ですから、丁度その間にあたる時期のこの文章からは、柳の「不二」に関する思索の一片をうかがうことが出来ます。さらにこの文章の最終段を引用します。

とも角、吾々の今度の旅の結論は、工藝にとってなくて叶わぬ根本的要件は、作者の心の居場所で、之に比べるなら、技術の巧みさ、材料の良さ、知識の深さなど何れも第二の条件なのを感じます。心の住居が濁っていたり、汚れていたり、間違っていたりしては、折角の技術も材料も知識も無駄費いになるということです。今の作者は多かれ少かれ鑑賞家ですが、鑑賞を只形だとか色だとか、柄だとかに止めず、また技だとか歴史だとかに止めず、どんな心の持ち方、住み方が自身の内に潜んでいるかをも見ぬかねばなりません。鑑賞はとかく第三者の立場をとりがちで、第一者に成り切ることがむづかしく、之は大いに反省すべき点でありましょう。若し物そのものを洞察出来、之と一体になるまで、眼の力を働かすと、工藝問題は心の問題に深く入ります。この意味で工藝問題は同時に宗教問題であるのが当然です。実際ニューメキシコの旅は、この土地の一切の美しい品が、悉皆、作る者の宗教心と深い関連があることを知らせてくれました。宗教心とは易しく申せば、ものを本来のままに素直に受けとる心です。それ故自分を立てる機縁がありません。自分と他とは対立しなくなります。それ故、ものを二つの相に分たず、不二で受けとります。仏教的な言い方をすれば「如」の心境に入ることです。「不二」の境地に活きることです。「無碍」を体得する生活です。宗派は何なりとも、こういう心境に住むことを可能にするものを、宗教と云いたいのです。吾々の今の苦悶は美醜や善悪の葛藤に悩んでいることです。そうしてせいぜい醜をしりぞけ、悪を征することぐらいが関の山です。之も一つの大きな価値かもしれませんが、併し美醜や善悪の彼岸に出た立場から見ると、まだ二元的な相対的な場所に止まっています。そんな対立から解放された自由なものでなければなりません。
思うに凡ての原始芸術の強みは、そういう自由さから生まれたことで、美醜や善悪の争いは、その跡を止めていません。それ故、実は誰が仕事をなすとも、醜さなどに染まないのです。染められるものが始めからないのです。禅録にある有名な話でありますが、神秀という僧が「人間は鏡のようなものだから日々拭いて清めておけ」と云ったのに対し、慧能は之を訂して「人間は本来鏡の如きものではないから、そこには始めから塵がたかる場所がない」と申しました。そうなると、塵をたからすなと云う教えも、意味が弱くなってきます。インディアンの仕事には、始めから塵がたからないのです。塵がどうしてもたかるような仕事なら、塵を払わなければなりますまい。併しそんな事情が起こらぬ世界での作品です。近代の多くの人々の作品が醜いのは、塵のつもる世界で仕事をするからなのであります。併し塵をつもらすものもなく、それを払うこともない世界に入るとなれば、誰が何をどう作ろうが、そのまま美しいのです。かのサントスやインディアンの品々は、この真理を私たちに示しているのであります。
<了>

ここにおいて柳は繰り返しの仕事、無名の工人といった点を主たる問題にはしていません。「若し物そのものを洞察出来、之と一体になるまで、眼の力を働かすと、工藝問題は心の問題に深く入ります。」という言葉からも明らかですが、柳は美の起源、以前書いたところに基づくならば「民藝的霊性」のありかを問うているのです。「眼の力を働かすと」という言葉からは、中沢新一氏が西田幾多郎を評して書いた次の言葉が思い起こされます。

それにもうひとつ重要な点が、西田哲学の全体的構成に、ひとつの堅固な安定点をあたえていたことも、忘れてはいけない。それは「見る」の力能への、彼のゆるぎない信頼である。彼は、判断的一般者、自覚的一般者へと超越をおこなっていく主体は、そのつど「活動」や、「意志」によって、跳躍的活動へと突き動かされると語り、最後の叡智的一般者に超越していったときに、そこではもはや主体は、活動することも意志することもせず、ただ「見る」ことによって行う、と語っている。
中沢新一,『フィロソフィア・ヤポニカ』,集英社,2001,p254-255,

西田自身もまた「直観」について語っています。

幾度かいうのであるが、私の行為的直観とは本能的とか芸術的とかいうことではない。無論、本能とはその未発展の状態といい得るであろう。芸術とはその一方向への極限とも考えられるであろう。しかし行為的直観というのは、我々が意識的に実在を把握する、最も根本的な、最も具体的な仕方でなければならない。概念というのは、唯抽象によって成立するのではない。物を概念的に把握するということは、行為的直観的に把握することでなければならない。我々は行為的直観によって、物を概念的に把握するのである(概念とはベグリッフである)。行為的直観的に物を把握するということは、作ることによって見ることである、ポイエシスによって物を知ることである。私は従来、我々が物を作る、物は我々によって作られたものでありながら、それ自身によって独立せるものとして逆に我々を限定する、我々は物の世界から生れるといったが、作られたものから作るものへとして作用が自己矛盾的に対象に含まれる時我々は行為的直観的に実在を把握するのである。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界においてのみ、かかる概念的知識が可能なのである。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時右にいった如く世界は意識的である。かかる世界の形成的要素として、我々は行為的直観的に即ちポイエシス的に実在を把握する。それが我々の概念的知識の本質であるのである。我々の今日概念的知識というものは、その根柢において物を作ることによって行為的直観的に把握し来ったものである。いわゆる実践によって獲得し来ったものである。一般には、眼が実用を離れて知識的と考えられる。しかしアリストテレスが我々は手を有つ故に理性的であるといった如く私は我々の概念的知識は手から得られたのであると思う。手は運動の機関であり把握の機関であると共に、製作の道具であるのである(Noire, Das Werkzeug[『道具』])。
西田幾多郎,『絶対矛盾的自己同一』,1939

ここで西田が示しているものは、柳が「物そのものを洞察出来、之と一体になる」と書いているのと同じです。こう比較して見ると、柳の思索も『手仕事の日本』からずいぶん遠いところまで来たとおもいます。このような、「民藝的霊性」にもとづいた仕事であれば「誰が何をどう作ろうが、そのまま美しい」。しかも、それはそのまま「作家性を否定する『民藝』からしたら『民藝作家』なんて矛盾ではないのか」というよくある質問への回答となる。作り手が個人の名前であろうが窯という共同体であろうが関係なく、ものと一体になって作りだされたものが、そのまま美しい。その場には、「美をも捨てたる美」を生み出すために、直観と製作を往復しながら、力を尽す作り手が、ただ、居るというだけなのですから。そして、徒にどうやれば霊性なのか、美しいのか、といった「条件」を問うことは、民藝様式の特徴を強化しこそすれ、民藝的霊性のありかに辿り着く道とはならないでしょう。ピンで留めた時に、蝶は飛ばなくなるのだと思います。
そして今こそ、河井寛次郎がいった言葉をここで思い返すことができます。「仕事が仕事をしています」。この「仕事」とはまさに無分別智、すなわち「民藝的霊性」のことではないでしょうか。

2010年もありがとうございました。

みなさまのおかげをもちまして、なんとか、一年を過ごすことができました。

ブリキ絵・落盤からの帰還

En el mineral de la aurora Edo de Puebla al dia de Julio de 1905 sostenes sagre do patero de ka misma negociasion se bio en grave peligro de quedar sepultado se encomendo al nino de Atocha y se bio Fuera de peligro por lo que da infinitas grasias

1905年、プエブラの鉱山で事故に遭い、生き埋めになるという深刻な不運にみまわれましたが、アトチャのイエス様のご加護によりその危機を脱することがかないました。かぎりない感謝をここに捧げます。

僕らも、かぎりない感謝を抱き、来年も日々丁寧に仕事を重ねていきたいと願っています。

さて、今年あった良かったこと。

・メキシコに行ってブリキ絵をたくさん見つけることができたこと
・民藝に関する口頭発表の機会を二回いただき、論文へと繋ぐ考察の機会とできたこと

そして来年の目標。

・ブリキ絵の企画展と、その巡回
・博士論文提出
・やっぱり、したくないことはしない

来年は3日に福岡城址にて凧揚げ会、4日から通常営業です。2011年も変わらぬご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

エチオピア・コプト教・マジックスクロール

くるくると巻かれている羊皮紙ですが、広げると、これ、このとおり。

天使たちとおまじないが描かれています。淡い紫色もうつくしいです。この巻物はいわゆる『護符』です。企画展も終わり、店の展示は常設に戻っていますが、それに加えて今はコプトやフィリピンといった周辺のキリスト教美術の古いものをいくつかならべています。望月さんにお会いして、祈りのある仕事というのはいいなとあらためて感じているところです。来月半ばからまた企画展ですが、それまでゆっくりやっております。5月23日から福岡市美術館は「シアトル美術館所蔵 日本・東洋美術名品展」です。「烏図」が来ます。道すがら、足をお運びいただけますと幸いです。

硝子吹き

Rosendo Ramirez se quemo gravemente cuando estaba trabajando soplando vidrie le da infinitas gracias a la virgensita de Guadalupe de que ya se curo y no le quedo cicatris Puebla 1935

ロセンド・ラミレスは硝子を吹いていたときに大変な火傷を負ってしまいましたが、傷も焼けあとも残らず治してくださったグアダルーペの聖母に感謝いたします。プエブラ・1935年

最近ブリキ絵ブログと化していますが懲りずにもう一枚。メキシコは工藝の国です。様々な仕事が行われています。硝子もその一つです。硝子を吹くのは大変ですが、自然からどろどろの流動的な状態に変えたものを取り出し、形を作り出し、命を吹き込んでいく様は、まさに人間がものをつくる根源です。中沢新一だったらきっと「ピュシスの力」と言うでしょう。そういえば、いつも訳はブリキ絵から適当にスペイン語を起こして、ネットのスペイン語ー英語翻訳にかけているのですが、語尾の子音がスペイン語だとzのはずがsだったりして(この文章だと墨:cicatris/西:cicatriz)、そのたびにロラン・バルトの『S/Z』を思い出します。

それはさておき、当店も来週火曜日から石川昌浩さんの硝子展です。熱さにも火傷にもめげず作られた、幸せな硝子が届きます。足をお運びいただけますと幸いです。

S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析

姉妹の結婚

dedico el presente retablito a san antonito en agradecimiento de que mi hermana y yo conseguimos novio y vamos a casarnos.

Chalchicomula 1910

聖アントニートによって私と私の姉がボーイフレンドを得ることができ、結婚できることになりました。そのお礼にこの祭壇飾りを捧げます。1910年

手持ちのものから一枚紹介します。幸せそうな姉妹の姿です。

ブリキ絵を見ていて不思議なのは、なぜメキシコにおいてこのような手法があり、同時代の布教地域であるフィリピンや、本国であるスペインに類似したものがないのか、ということです。そんな時、以下に引用するような宣教師の文章を読むと、ブリキ絵の起源に関係するのだろうかとも想像します。

ある年の四旬節に私はロス・アンヘレス市(※引用者注:アメリカ合衆国の都市・ロサンゼルスではなく、現在のメキシコシティから東方にある都市プエブラを指す)の近くにある大きな町チョルーラにいた。この時、告解のために集まってきた人があまりにも大勢であるのを見て、私はこれではとても全員に思い通りの霊的指導のことばを言えないと思ったので、「私は自分の罪の内容を絵文字で書いてきた人だけの告解を聴くことにする」と彼らに言い渡した。絵を用いてなにかを伝えるというこの方法は原住民ならばだれでもその術をよく心得ていて、またこれでよく理解もするのである。いわばこれが彼らの文字なのである。

さて、私がこう言うと、早速彼らは自分の罪を絵に描いてやってきた。そしてその人数はやはり大変なもので、ここでまた私は身動きもできなくなってしまった。告解の場では彼らは藁を一本手に持って描かれた絵を指しながら告解をしていき、私の方もまた藁を手にして先を促していくのだが、このようにすると告解はいつもごく短時間で終わった。この方法によって大勢の人が告解を済ませることができた。彼らはいずれもその絵模様と記号を用いて告解の内容を本当によく準備してきたので、その書いてきたものというか、描いてきたものというか、ともかく手許に用意してきたもの以外は彼らに尋ねる必要はまずなかった。スペイン人の妻となっている大勢の原住民の女性がこうした形で告解を行った。とくにロス・アンヘレス市ではそうだった。

モトリニーア著,小林一宏 訳・注,『ヌエバ・エスパーニャ布教史』,大航海時代叢書第II期14巻,岩波書店,1979年,第二巻第六章「原住民が告解の場で用いる絵模様や記号、および二人の若者の死をめぐっての出来事について」,p.261より

この文章を書いたモトリニーア(Motolinia, Fray Toribio de Benavente, 1482-1568)はフランシスコ会の宣教師です。フランシスコ会は日本では長崎の二十六聖人で知られるかと思います。彼はスペインに生まれ、幼い頃よりフランシスコ会にて学び、1523年に新世界に対する布教のために選ばれた12人の宣教師のひとりとして、ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン副王領・現メキシコ合衆国を含む)における布教に尽力しました。

まあ一人の宣教師の便宜的なアイデアが直接ブリキ絵につながったわけではないでしょうが、メキシコにおける先住民たちがこの時期既に絵画という手法に熟達しており、国立人類学博物館にも残されているような卓越した造形力、特にデフォルメの力はその時期でも健在であったし、今に至るまでもずっと受け継がれてきている、というのは間違いないところではないでしょうか。

メキシコにて

話が前後しておりますが、今回メキシコに行った理由は、ブリキ絵を探すためです。そもそもブリキ絵とは何かについて、以前個人的に作った冊子のために書いた文章をもって説明します。

「ブリキ絵」とは

本冊子において取り上げているのは、メキシコのキリスト教教会に奉納された、ブリキ板に描かれた祭壇画「RETABLO(EX-VOTO=奉納物とも呼ばれる)」である。なお、本冊子においてはこれらをスペインおよびスペイン旧植民地地域におけるキリスト教会美術としての祭壇飾りである祭壇画および背障、垂れ幕などを含む宗教用語、ならびに祭壇後方に位置する飾り壁を意味する宗教建築用語としての「RETABLO」および、一般的な奉納品も含む用語である「EX-VOTO」と区別するため、以下の文章においては、「RETABLO」を含む世界各地の民藝品を数多く蒐集していた、型絵染の重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、染色工芸家でもある芹沢銈介(1895-1984) が用いた呼称に従い、「ブリキ絵」と呼ぶ。

本冊子においては著者が蒐めたブリキ絵100点を示し、各図に記された奉献文の概訳ともに解説を行う。一部のブリキ絵においては欠損が甚だしく、文字の判読がかなわなかったものがあるため、それらに関しては図像から読み取れる解説にとどめる。

「ブリキ絵」誕生まで

ブリキ絵は1800年代末にメキシコに生まれ、1900年代初頭よりメキシコ中央西部地域において特に広がりを見せた。メキシコにおけるキリスト教は、そのはるか以前1519年に、スペイン人コルテス(Hernan Cortes,1485-1547)によるメキシコ征服以降、ヌエバ・エスパーニャ副王領(所謂「新スペイン」)としての植民地支配と共に、征服者の信仰として、また被征服者を統べるための道具として持ち込まれたことにはじまる。現在メキシコ合衆国の首都であるメキシコシティが、14世紀から16世紀まで存在したアステカ王国のかつての首都・テノチティトランであり、またメキシコにおいて最も信仰される「グアダルーペの聖母」(後述)を奉じたカトリック教会であるグアダルーペ寺院もやはり、アステカの神殿があったテペヤックの丘に建てられているように、スペインより持ち込まれたキリスト教は、メキシコの地に以前よりあった先コロンブス期におけるオルメカ文明、さらに14世紀におけるアステカ文明といった先史の痕を消すために、漸次置き換えられてきた。

このようにしてキリスト教がメキシコに持ち込まれた当初より、祭壇飾りとしての各種RETABLOはその地における布教がどの程度進んでいるかを示すパラメータとして重要な地位を占めていたが、大衆の信仰表明のための手段としては一般的ではなく、富裕者からの寄進が主であったようである。その後、キリスト教がメキシコにおける原信仰と一定程度の融和を遂げた段階で、大衆の祈願・聖像への信仰を表現する手段、彼らが暮らす上で避けることのできない不安からの解放や要求の成就を示す手段としてのブリキ絵が生まれた。当初、奉納の際、安価に調達できるキャンバスとしてブリキが選ばれたようであるが、ブリキ絵は必ずしもブリキだけではなく、布地や木、合板などに描かれることもある。

一枚のブリキ絵は次のような経緯で生まれる。何かしらの願いや祈りを捧げたいと願うものは、まず教会もしくは礼拝堂において聖像に対して祈りを捧げる。その後、祈りが成就したと自らが認めるところによって、「レタブレロス=RETABLEROS」もしくは「レタブレタス=RETABLISTAS」と呼ばれる職人にブリキ絵を描いてもらい、これを教会や礼拝堂など、恩寵をもとめる崇拝者のいる場所に飾る。これらの一連の製作過程は、現在においても変わらない。

「レタブレロス」は現在のメキシコにおいては専門職として分化しているが、かつては印刷業を営む者や教会において同様の業を行う者が作成を請け負っていたようである7。彼らは、日常自らが営む暮らしに残るオルメカ文明やアステカ文明における様式を取り込みながら、スペインにおける美術様式であったロマネスクやゴシック様式の影響を受けつつブリキ絵を制作することによって、ブリキ絵を独自の様式をもつ絵画として発展させてきた。

ブリキ絵の絵画的な特徴

ブリキ絵は、概ね下記の三つの基本的な要素によって構成されている。

  1. 誓願にふさわしい聖像
  2. 強く訴えかける表現、もしくは奇跡的な出来事
  3. 上記の出来事についての、文字による説明

「1」の聖像については、おおむね請願者の好みに依るところが大きい。聖母信仰が盛んなメキシコにおいては、最も信仰されるグアダルーペの聖母、オアハカの守護聖母である孤独の聖母など、多くの聖母が存在するため、彼ら聖母が表現されることが多い。また、守護聖人の役割に応じて選択されることもあり、例としては、恋愛の成就などについては、聖アントニートがその役を担う者として選ばれることが多い。

次に「2」であるが、ブリキ絵において特に重要な要素とされるのは、この出来事の描写である。請願者の祈りとその成就を表現するにあたっては、レタブレタスがもつ経験、請願者から、彼らに起きた出来事を聞き取り、生かすための想像力、そして「超越的な存在」に対する賛美の気持ちを描写するための技術が要求される。

「3」の文字による説明は、古いブリキ絵においては通常画面の下方に記される例が多い。テキストは聖像の名前ならびに聖像に対する感謝の言葉を表し、また、その出来事の状況や場所、日付、請願者の名前などを含むこともある。

このように、ブリキ絵がメキシコの民衆の祈りによって生み出された絵画であり、祈りを示すために用いられる点においては、日本における絵馬が民衆の祈りによって描かれ、神社に奉納されるのと同じように見える。しかしながら、ブリキ絵に描かれている事跡が、専ら実際にあった出来事への感謝、事件からの救済である点が、大きく異なる。彼らにとってブリキ絵とは失われたものの回復を示す表現であり、奉献文にしばしば記されているように、「インフィニタス・グラシアス=限りない感謝」は、聖人への感謝であると同時に、かつて失われた自己の一部への追悼を込めた感謝でもある。こういった表現が含まれているという点において、同時代における日本の絵馬が「おきてほしいことへの願い」をしるしているのに比べ、より素直に彼らの生活感情を表現したものであるように思われる。

近代メキシコにおける「ブリキ絵」

近代メキシコ美術において最も重要な位置を占める画家であるフリーダ・カーロ(Frida Kahlo,1907-1954)もまた、幼時からの病や事故による後遺症、夫である画家ディエゴ・リベラ(Diego Rivera,1886-1957)との関係など、自らの抱える不安と苦痛を、自ら描いたブリキ絵によって表現した。フリーダ・カーロが描いた他の作品にも、ブリキ絵が持つ様式性を取り込んだ作品例が散見される。またフリーダ・カーロは、多くのブリキ絵を収集していたことでも知られるが、それらは現在、フリーダ・カーロ博物館として公開されているメキシコシティ郊外のフリーダ・カーロ旧宅「青い家(La Casa Azul)」に、前述の自らが描いたブリキ絵と共に展示されている。

フリーダ・カーロとブリキ絵の関連性については、下記のような文章もある*1

彼女は奉納画を再発見し、民衆的な荒々しい表現を、特殊なテーマと判型と様式に凝縮した最初の画家だった。フリーダの作品と奉納画の関連性について研究したパウル・ヴェストハイムは、こう分析している。

「奉納画にこめられた民衆の魂からフリーダ・カーロがとりだしたものは、生命への肯定のほかに、表現形式の率直さと単純さ、嘘を隠したような方法によるいわゆる真実の実現である。なぜなら、現実の世界、自然の世界、対象物の世界、発明の世界と、象徴の世界、非現実の世界を隔てる境界線などないからだ」

民衆的な奉納画では、救い主がつねにイエス・キリストや聖母マリアや聖人の姿で描かれるが、フリーダの絵画のなかでは象徴的な物体がそれらに取って代わったり(『ヘンリー・フォード病院』では、いくつもの物体が空中に浮かんでいる)、彼女自身の救い主が選ばれていたりする(『マルクスが病人に健康を与える』でのマルクス(下図)、『フアン・ファリール博士の肖像画と一緒の自画像』でのファリール博士など)。

また本冊子におさめられたブリキ絵にはいくつか、1910年代から1920年代に制作されたものが見られるが、これらに記された事跡および聖人の選択、そしてブリキ絵の筆致の変化そのものが、同時期にメキシコにおいてエミリアーノ・サパタ(Emiliano Zapata Salazar,1879-1919)らによって起こされたメキシコ革命(1910-1929位)および、1920年代から1930年代に、前述の画家・ディエゴ・リベラらによって起こされた社会主義思想に基づく絵画運動であるメキシコ壁画運動(Mural)の動きを映している形跡がみられる。『ちいさな壁画運動』とも呼びうるこれらの可能性については、より多くのブリキ絵を比較していくなかで、今後検討を行いたい。

(後略)

というものです。で、今回見つけたブリキ絵から数枚。年代や作り手ごとに変化があります。

左:1928年・中:1943年・右:1970年頃

ですので、今回の旅行ではブリキ絵を探すことはもちろんですが、メキシコでの暮らしと信仰と芸術がどう結びついているのかをこの目で見ることが何よりの願いでした。そしてその願いはしっかりと叶えられました。人類学博物館やルイス・バラガン邸といった「名所」だけでなく、グアナファトにいく途中に見える小さな村々に建つ教会、道行く人びとの優しさから、しかと教えてもらいました。

宿の前の教会とフリーダ・カーロ美術館通称「青い家」

グアダルーペの聖母教会と、御本尊であるグアダルーペの聖母像

文部省の建物に描かれた壁画について懸命に説明してくれる文部省のおじさんと、共産党の集会

ご飯もおいしいし物価は安い、人は親切、メキシコは素晴らしい国でした。また必ず近いうちにたずねます。皆様も是非。

*1:「フリーダ・カーロ 痛みこそ、わが真実」,クリスティーナ・ビュリュス著・堀尾真紀子監修・遠藤ゆかり訳,2008.12,創元社,P.52-53,Frida Kahlo Je peins ma ralit,Christina-Burrus,Gallimard,2007

メヒコ行ってきました。

捜し物を求めてメキシコに行ってきました。首都であるメキシコシティは親切な人びとの住む典雅な古都でした。また、長距離バスに乗って郊外に出ると、どこまでも広がる青い空が心地良かったです。詳しくはまた改めまして報告いたします。

新スペイン風邪

メキシコはかつてスペインの植民地であり、新スペイン副王領(ヌエバ・エスパーニャ)と呼ばれました。今回の感冒が当初広まった範囲を見るとまさにヌエバ・エスパーニャです。言葉通りの新スペイン風邪ですね。今年の3月末にはブリキ絵を探すために、メキシコを訪ねる予定でしたが、今回の店舗開店のため、延期していました。まだしばらく行けなさそうですね。早くおさまることを祈念しつつ、古いものから一枚紹介します。

大意:シェマ・グティエレスは病に伏せっていた弟を治癒くださったフキラの聖母に感謝し、その信仰の証としてこの祭壇飾りを捧げます。1917年,プエブラ