MISSA MEXICANA
ブリキ絵の企画展は無事終了したのだけれど、その際にいろいろと調べていて、メキシコのミサ音楽というものを見つけた。聴いてみると、マリアッチのような軽さがあるのだけれど、間違いなくスペインからきたカトリックのにおいがして、とても心地よい。この録音はプエブラで行われたらしいけれども、ブリキ絵もまた、プエブラ地方でよく描かれていたようだ。モトリニーアの『ヌエバ・エスパーニャ布教史』(岩波の『大航海時代叢書』というすごい名前のシリーズで出版されている)を読んでいると、フランシスコ会とドミニコ会の修道院もあったようで、カトリックの聖人信仰とアステカ固有の信仰が、長い時間を掛けてこのような形式をつくりあげていったと思われる。ただ、それは単に融合や折衷、といった言葉で纏めてしまう訳にはいかない。
スペイン人による征服とともにアンデスに立ち現われた植民地の美術とは、まずは支配者たちの美術であった。それは征服者の力とその支配の正当性を誇示しようとするものであり、また他方では、本国文化へのあこがれといった、植民地のスペイン人支配層の欲求をも投影したものであった。
本国において権威をもっていた様式・図像を植民地に移植しようとする動きが、植民地美術のなかに、ひとつの大きな流れをかたちづくる。しかしこうした征服者の美術はまた、従属する側に置かれた先住民たちの視覚にも、否応なく刻みつけられていった。(中略)ここに、「もうひとつの植民地美術」とでもいうべき創造の場が立ち現れる。アンデスの先住民たちは、キリスト教美術をつくりだす側に、身を置くことを選び取っていくのである。そこでは、たとえばインカを異教徒として蹴散らした、あの聖ヤコブの像をみずから描き賛美することもあろう。それは、突如現れてみずからを征服した他者の文化に直接向き合い、その支配者の文化をわがものとしていった歴史でもあった。(中略)ひとりの先住民の手になる聖像がつくられ、それが聖堂に受け入れられるにいたるには、さまざまな曲折があった。それは、たんに先住民芸術家のパイオニアの苦難であっただけでなく、先住民社会が支配者の文化と向き合いつつ、それをみずからの文脈にとらえ直し、さらにはみずから行使しようとさえする、粘り強い交渉のプロセスでもあった。1
被支配者、布教を受けることを強いられていく側が、積極的に自らの表現、形式として、支配者、布教者の形式を先取し、そこに彼ら自身の歴史が持つ固有性を託していく。それは僕らが近代、という時代に行った様々な美術運動の中にも見出すことができる。このような視点、ブリキ絵を見、メキシコのミサ音楽を聴くのと同じ場所から、民藝運動において行われた表現を捉え直すことはできないだろうか。たとえば、スリップウェア。なぜ柳や濱田、河井たちがあれほどスリップウェアに固執し、今もなお民藝系の作り手や窯に影響を与え続けているのか。それを理解するということは、スリップウェアにおける表現や技法、美について考えることによってではなく、むしろ、僕らの暮らしにおいて、今、なぜ、スリップウェアなのか、それはどのような機能を担っているのか、を検討し続けることによってのみ可能となるだろう。
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『南米キリスト教美術とコロニアリズム』,p.36-38,岡田 裕成・齋藤 晃 共著,名古屋大学出版会,2007.03 ↩


