治る

ご飯を食べ、よく眠り、できる仕事をして過ごしていると、朝晩と、からだが治っていくのが実感できる。腫れが引いて少しづつ膝小僧が膝小僧らしい形を取り、膝が曲がる角度が増し、手術を受けた傷口もまた塞がっていく。昨日出来なかったことができるようになる。治るという事自体が嬉しいので、それに伴う痛みも痒みもまたよろこばしい。それにしても不思議なのは、からだが治るということだ。若いってことだよ、周りの人はいうけれど、若ければ治るというわけではない。年をとっても治りが遅いだけで、治ることには変わりない。こどものように尋ねるならば、誰が治してくれてるの?、ということだ。

治る話といえば、盲人を癒したイエスの話が真っ先に思い浮かぶ。道端で物乞いをする盲人を見て弟子たちはイエスに問う。どうしてこの人はめしいてしまったのでしょうか、と。それに対して「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ福音書9.3)と言ってイエスは盲人の目を見えるようにするのだけれど、単にそれをイエスの奇跡的な力、キリスト教を信仰すれば病気が治る、ありがたいありがたい、と考えるのはどうだろうか。

むしろ、そんなご利益主義と裏返しの懲罰主義とも先祖崇拝的な因果律とも関係なく、ただ単に「治るために」「治るという事象が現れるために」こそ、この人は盲目なのだ、と言ってしまっているのだ、と捉えたほうが、僕らにはわかりやすくないか。すれば、治る、と言う事自体が「神の業」なのではないだろうか。その時、イエスが言う神は、スピノザが言う汎神論的な神とほぼ同じところを指し示している。つまり、「自然」だ。ヨハネ福音書には同じような場面がいくつかあるが、安息日に治癒行為をしたことについて非難するユダヤ人たちに告げるイエスの言葉はまた、それに近い。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」(5.17)。安息日にも続けられる「治す」という働き、それは僕らが普段感じている自然であり、「世界」ではないだろうか。治るという事象が自然として存在する僕らの世の中が、奇跡である。

「世界はどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。世界がある、ということが神秘的なのである。(『論理哲学論考』6.44)」

と言ったのはウィトゲンシュタインだけれども、その奥底には同じ思考がある。ぼくらの世界は、傷つく世界であり、同時に治る世界だ。そのことをいま、体を通して理解している。

だから先の問いにはこう答えたい。「あなたの知らないあなたと、あなたが今いるこの世の中の力が手をとりあって、あなたの傷をこっそり治してくれてるんよ。すごいねえ」と。